サクラサク

アポロ1970年入社後の配属は、経理部でした。
でも、私としてはとにかく外に出たかったというのが本音でした。
そして、そのチャンスは程なく訪れます。
それは入社からわずか2年後、海外旅行専門の私の会社と、当時、国内旅行専門の東急観光が合併することになったのです。ついてますね。新社名は、東急観光に決まりました。

そこで私は、運良く海外旅行部に配属になり、団体旅行を航空会社に申請する部署で仕事をすることになったのです。お客様と一緒に旅行する添乗を最初に経験したのもこの時期でした。私の最初の添乗は、戦争でご主人を亡くしたご家族のグループで、グアム島・サイパン島・トラック島の戦跡をめぐる旅行でした。 今思うと、故人と向き合う気持ちというのはこのときにうっすら体感していたのかもしれません。

丁度そのころ、グアムが新婚旅行先としてのブームになり始めていました。
旧東急航空は、グアムの観光では業界の先陣を切っていたということもあり

「お前、グアムが忙しいから暫く行って手伝って来い!」

と晴れてグアム臨時駐在員になったのです。
※ちなみに 旧日本軍人 横井さん を発見したのも我が社の駐在員だったんですよ。

その後、グアムでの働きが評価されてかどうかは分かりませんが
1974年10月にニューヨーク赴任が決まりました。

当時のニューヨークは、第一次オイルショックの後遺症で治安は悪く、マンハッタンはとても荒れていました。ここでの仕事は、在ニューヨーク日本企業社員の出張手配、新商品発表等のコンベンション手配・運営です。当時は、航空便予約、ホテル予約、レンタカー予約等すべて電話での対応となり英会話の出来ない私にとって勤務の毎日が針のむしろに座っているようでした。

でも、いい経験でしたね。
まず、外国人に対する恐怖心はまったくなくなりましたし
ゴルフも日本では考えられないくらい思い切り楽しみました。

また、結婚し新生活を始めたのがニューヨークでしたし、長男が誕生したのもニューヨークでした。(馴れ初めについてはいつか機会があればお話します)

その後、5年半という駐在員生活を終え、1980年5月に本社海外旅行部に帰任しました。その後、内勤に耐えられなかった私は半年後に神田営業所に自ら転出いたしました。ここで旅行業営業の第一歩を記すことになったのです。

この営業所に勤務中、色々な仕事を経験しました。

学生マーケットへの参入、ロサンゼルス・オリンピックへの聖火ランナー派遣、スポーツ用品企業のソウル・オリンピック500人招待プロジェクト、大阪オリンピック招致活動でアトランタオリンピック視察などなど、今思い返しても本当に楽しい経験でした。

その後、1989年1月からアークヒルズ支店で支店長を5年勤めます。
この支店では、お客様企業の周年事業で旧ソ連邦ウラジオストックに民間の船で行くという旅を企画し成功させました。当時は、まだソ連邦で特にウラジオストックは、極東の要の軍港でしたので、民間船の入港は極めて困難なものだったんです。
※過去には日本の民間の船として東海大学の練習船が一度入港しただけでした。

その軍港に民間船に民間人を乗せて入港させようという企画でしたので壁は様々ありました。紆余曲折の末、無事に入港し現地住民との交流会も盛大に行われ大成功で終えることが出来たとき、この感動は今でも忘れることが出来ません。
振り返るとこの時代が会社人生でのハイライトでした。

そんな最中、私は親しかった友人の死を迎えます。
それは鮮烈な印象でした。詳しくは、こちらをご覧ください

その後、「お葬式」「死」というものをあらゆる角度から勉強しました。
その中で、現在の葬儀に対する様々な疑問や矛盾を感じていくのです。

時同じくして、長年勤めた東急観光を潔く退職し、カウンセラーとしての資格を取得。57歳にして起業にいたりました。

でも、生まれつき「欲」という物に無縁な性格でして、起業はしたものの「たくさん儲けて優雅に暮らしたい」と考えてはいません。食べていくことに事欠かず、家族と過ごす時間が十分に確保でき、大好きなサッカーを続けながら、楽しい仲間に囲まれて生活していければそれで十分です。結構贅沢ですね(笑)。

サッカーといいましたが、実は子供がたまたま入った小学校のPTAの会にお父さんのサッカーチームがあり、友達つくりと健康のためにサッカーを始めたのがきっかけです。まったくサッカーの経験が無かったのですが、未経験が入部の十分条件だ…ということで入部を許され、今ではすっかりはまっています。サッカー自体も面白いのですが、何よりここの仲間たちが最高に素敵なんです。

こんな素敵な仲間たちに囲まれて、自分の最後のステージ「お葬式」を「柴田」らしく終えられたら最高だと思う今日この頃です。

こんな柴田でよかったらいつでもあなたの相談に乗ります。